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さよならワープロ
パソコンで原稿を書くようになって15年ほどたつだろうか。その前に使っていたのは、「東芝ルポ」というワープロだ。ケースに入れたまま置きっぱなしだったワープロをついに粗大ごみに出して処分することにした。そのまま出すのも忍びなく、取り出して電源を入れてみると…、ちゃんと起動する。これもずっととっておいたフロッピー(ワープロは本体に記憶されないので、書いた原稿はフロッピーに保存する)を挿入すると、昔々書いた原稿が、再現された。なつかしい!
私がライターの仕事を始めたころ、雑誌の原稿は200字詰めの原稿用紙に鉛筆で書いていた。書き上がった原稿は編集部まで足を運んで届けた。すんなりOKが出ることはほとんどなく(駆け出しだった)、編集者に赤鉛筆で直され、書き直したものだ。
その後、ファックスが普及してくると、原稿はまだ手書きだったけれど、編集部には足を運ばす、ファックスで送るようになった。やはり赤鉛筆での直しが入って(といってもファックスで送ると白黒になる)、電話であれこれと話をして、書き直して、またファックスで送っていた。
次に普及したのがワープロ。ワープロで打った原稿を、ファックスで送る時代は、けっこう長く続いたような気がする。その頃は書く仕事をはじめて10年以上が過ぎていたのに、私は、まだ原稿を直されていた。担当編集者、デスク、編集長、複数の目のチェックが入って、それぞれから様々な指摘を受け、またワープロに向かった。
薄く軽くなった今のノートパソコンに比べると、なんともごついワープロを見ながら、このワープロでたくさんの原稿を書いてきたことを思い出す。そういえば、幼い長男を背中におぶってワープロに向かった夜もあった。
ずっとワープロを使っていたかったのだけれど、インターネットが普及しはじめたころ、パソコンに替えた。さらにEメールが普及してくると、仕事の方法は大きく変わった。パソコンで書いて、Eメールで原稿を送る。パソコンのワードなどで書いた原稿は受け取った編集者が簡単に直せる。いちいち電話やメールで書き直しを頼むのは面倒なのだろう。向こうで修正されてしまうことが増えた。また、電話での打ち合わせの時間が激減した。お互い仕事は効率的になったのかもしれない。「編集長のOKが出るまで待機していてください」と編集者に言われ、冷蔵庫の缶ビールを思いながら深夜にワープロの前で座っていることはもうないのだ。「お疲れ様でした。編集長OK出ました。今月も無事、入稿です」という電話で、「やった!」と冷蔵庫に向かうことも今はない。フリーランスの人間にとっては、より孤独な時代になったと思う。
ワープロ、やっぱりとっておこうかな……。いやいや、前に進みましょう。油断していると、「坂本さん、原稿のここの所、直してもらえませんかね? ちょっとわかりにくいと思います。できれば…」とまた電話かメールが入るかもしれない。
長いことほったらかしで、まだ働けるのに、ごめんね。そして、さよならワープロ。
あきらめること、あきらめないこと
「半分あきらめて生きよう」という趣旨のインタビュー記事に心を打たれ、何度か読み返した(日経新聞2013年10月5日夕刊)。臨床心理士の諸富祥彦さんの主張だ。ガンバレと鼓舞するだけでは余計にしんどくなる、あきらめることも肝心だと。私の専門である家計管理で考えてみると、家計にはいくつかの段階があるが、50代の人に、「半分あきらめる」という言葉は、せつなく響くのではなかろうか。
これから自分が仕事でどれくらい稼げそうか、自分のキャリアの行く末について想像がつくようになり、公的年金の受給額もほぼ予想がつく。これに現在の資産や家族の状況を合わせると、人生後半の家計、つまりは暮らしの概要が見渡せる時期になる(私はFPという仕事柄、おおよそ想像がつきますが、みなさんはいかがでしょう?)。
世の中も人生も、もちろん先のことはわからない。しかし、ほぼ現状が続くとするなら、あきらめることと、あきらめないことの選択をしなければならない。自分には無理なことがはっきりわかったら、それに関しては、もうあきらめる。そうすることで心に平穏が訪れることは、私自身体験しているのだけれど、体力や気力の衰えもあいまって、仕事や日々の暮らしにおいて、まだできることまで、つい、あきらめかけてはいないのか?と自問自答する。
そんな思いをかかえて、子どものテニスの練習会に同行した。ボールを追いラケットを振る子どもたちを見ていて、あきらめたくはないことがまだいくつもあることを確認。
家計管理も、中年以降であっても、例えば10年間しっかり行えば、かなり様々なことが改善される。今の資産が少ないから、もうダメというわけではない。また手持ちの資産の範囲内で最良の選択をすることは、賢さの表れでこそあれ、あきらめているとか、負けたということではないはずだ。
いさぎよく、あきらめることはあきらめ、あきらめきれないことには、とことん努力を続けたい。どうせなら、明るく、カラッと。
ジャンケンポンで決めよう!
次男にいきなりジャンケンしようと言われることがあります。意味なく…のときもあれば、私の要求(お手伝いや勉強のあれこれ)を退けたくて(僕が勝ったらママの言うことはきかないよの意味で)のときも。
私にとって重要事項に関しては、ジャンケン拒否!で対応してきたわけですが、本多静六氏(山林、土地、株式などへの投資で巨万の富を築いた大学教授)の著書に次のような一文を見つけました。
「私は、わが家の平和のために次のような憲法を実行している。その憲法はきわめて民主的なもので、一般にジャンケンポンと呼称される。すなわち私たち夫婦の間、もしくは家族の間で、意見が不一致のときは、二度までは互いにその意見を主張できるが、三度目には必ずこのジャンケンポンの裁決を仰ぎ、負けたものは勝ったものの説に必ず従うことに決めたのである。
もともと家庭内において、その利害損失がはっきりした問題には議論の余地はないもので、争いが起こるのはたいてい五十歩百歩、どっちでもよいことであるが、負け惜しみ、やせ我慢などによっていよいよやかましい議論に陥り、抜き差しならないようになってしまうのだ。こんな場合に互いに笑って解決する方法が、このジャンケンポンである。」(「お金・仕事に満足し、人の信頼を得る法」三笠書房より)
それ以来、次男のジャンケンポンの要求には応じることに。
人間は不思議な生き物ですね。こちらが負けて折れると、逆に勝った方が気を使って、自主的に何かを実行してくれることもあります。
この数カ月は、ジャンケンポンと、ちょっと前に見たテニスコートの虹!が私の心のオアシスです。